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BIOGRAPHY
バイオグラフィ

港千尋 Chihiro Minato

1960年神奈川県生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業。在学中にガセイ南米研修基金を受け、南米各地に長期滞在。1985年よりパリを拠点に写真家・批評家として幅広く活動。
写真展「市民の色 chromatic citizen」で第31回伊奈信男賞受賞。
2007年、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。
主な著書に、『記憶』(講談社選書メチエ、サントリー学芸賞受賞)、『映像論』(NHKブックス)、『レヴィ・ストロースの庭』(NTT出版)などがある。
現在、多摩美術大学教授。

勝又邦彦/勝又公仁彦 Kunihiko Katsumata

静岡県生まれ。
物心ついたときには主要な仏典の話を記憶していたことから、自らを仏教徒と認識。原始仏教並びに世界の宗教の起源についての比較研究に興味をもつ。同時に家の裏のプロテスタントの教会に出入りする。幼稚園の小山の裏にUFOが飛来するのを目撃。翌日、他の子供たちはそのことを全く覚えておらず、訝しく思う。
小学生の時の将来の夢はスポーツ選手(ボクサーまたはサッカー)と詩人の兼業。昆虫少年として山野を渉猟。父親から書と剣道の指導を受けるが熱血指導過ぎて挫折。家に少し残っていた書画や彫刻、父親の趣味の宝石研磨には心引かれた。
小学校4年生の時にカメラを買い替えてもらい、日食と月食を撮影する。文章表現にのめりこみ、膨大な日記を残す。
中学校では陸上競技とバンド活動に励む。高校ではサッカー部に入るが、医師の誤診のため1年で退部し美術部と文芸部に所属。無為の日々を送りつつロック研究。満月の夜は近所の前方後円墳に行き、月を見て過ごす。全く勉強していなかったのに自信満々で迎えた大学受験(美大も受験した)は全て不合格で宅浪に。妹から「お兄ちゃんが教科書を開いている!」と驚愕される。猫を飼い始める。
初期仏教の研究のためサンスクリットを学ぼうと東京外国語大学ヒンディー語学科を受験し合格するが、学生による外国語劇に参加しなければならないという入学案内を見て、入学を取りやめ、早稲田大学法学部に入学する。
法学部を受験していたのは、世の中で唯一全く興味のない分野のため独学が不可能だろうと判断してのこと。入学の前後から文章制作と絵画制作を本格化。最初の法学の授業で内容が全く頭に入ってこず、次に出た若桑みどりさんの現代美術の講義はすんなりと頭に入ったため、進路を間違えたと自覚し親に退学を申し出るが当然受け入れられなかった。 そのため学校にはほとんど行かず、ひたすら制作と研究の日々を過ごす。4年生より写真と映像制作を開始。宗教哲学者の鎌田東二氏の元で俳句と宗教学について学ぶ。鎌田氏の先達により修験的なフィールドワークを日本各地で行い、神道的自然観と身体技法に触れる。
官庁及び大企業嫌いのため就職活動は全くせず。制作時間の確保のため拘束時間の短いライターのプロダクションに就職。有名占い師のゴーストライティングのため、西洋占星術を教え込まれる。少女マンガなどを中心に星占いのコーナーを執筆する。
子供たちが本気で信じているかもしれない、と良心の呵責に耐えきれず退社。当時は文章や絵画と並んで、ロールペーパーで大型の白黒写真を印画し、そこに撮影地で採取したものを貼付けるような作品を作っていた。友人が作品をコレクションしていた白岡順氏が帰国されると作品を見てもらう。当時のヒーローはアンセルム・キーファーとヨゼフ・スデック。
映画のスチール関連の会社に転職し、宣材写真の手焼きプリントに従事。毎日暗室で引伸し機に向かい、同じ動作を繰り返すため背中を痛める。部署替えなどの甲斐もなく体調不良と薄給を嫌い退社。白黒写真をベースにフィルムをデジタル化して加工し、透明シートに出力後にさらに加工を加える作品が主になる。メディアアートに興味を持ち、ドイツのZKMへの進学を模索する。
デザイン関連への就職を試みるも悉く断られ、金融機関に転職。債権回収業務に従事。最初は戸惑ったがすぐにトップの営業成績をあげるようになる。と同時に債権回収に伴う圧力営業手法の影響で性格と発言が歪む。
この間最初の結婚をする。引っ越しで暗室がなくなったため白黒写真からカラー写真の撮影に変わる。この頃ダンサーの山田せつ子氏のアトリエで開かれていた講座の手伝いなどをする。会社が株式上場することになり、大企業に所属しないというポリシーに従い退社する。
鎌田氏が作品をコレクションしていた横尾龍彦氏のアシスタントとしてドイツに渡る。ベルリンから車で3時間ほど離れた旧東ドイツ地域の寒村の元集団農場の集会場を改装したアトリエに居住し、禅的瞑想方法を教え込まれる。薪割りと近所の子供たちの相手が日課となる。
ドイツ国内を旅行。デュッセルドルフアカデミーとケルンのメデイア工科大学及びZKMへの進学を模索するが果たせず、帰国。
IAMASへの進学を考えていたが、大阪のインターメディウム研究所の存在を知り、伊藤俊治氏がトップであるためにそちらへ入学。元々関西以西に住んでみたいと思っていた事情もあった。
当初はメディアアートを専攻する。大竹伸朗氏に作品を見てもらい刺激を受ける。現代美術を椿昇氏、写真を畠山直哉氏と港千尋氏に学ぶ。椿氏の「写真でいけ」という直言や畠山氏港氏の写真に対する真摯な言葉に心を動かされ、より真剣に写真に取り組む決意をする。一年間の修了時に5つの展覧会に出品。最初の個展をインスタレーションにて開催。美術手帖の展評欄に取り上げられるも、その後同じ手法での展示は行っていない。
この頃プラネタリウムでの投影解説のアルバイトにより、古代から現代までの宇宙理論を学ぶ。インターメディウム研究者の有志から派生した大阪のオルタナティブスペースGPODに参加する。
翌年開催した個展ではギャラリー内に大量の瓦礫を運び込んでの映像インスタレーションを行い、主催者からの強い非難に遭う。以後、プリントでの写真発表に移行する。インターメディウム研究所の写真講座のTAを務め翌年から講師となる。インターメディウム研究者の万博記念協会への移動につき併設されたインターメディアラボに入社。後にインターメディウム研究所へ異動。教学センター長となり、講座運営や学生募集などに携わる傍ら、写真及び映像撮影の業務にも従事する。
「Phases」「Unknown Fire」といった作品を東京と大阪のギャラリーで発表。伊藤俊治氏の推挙によりさがみはら写真新人奨励賞を受賞する。 2002年に東京に戻る。東京国立近代美術館での「写真の現在2—サイト 場所と光景」展に「Phases s.v.」「Phases g.v.」「Unknown Fire」「Panning of Days」「One day(後にParalaxと改題)」といったシリーズから出品。Art Basel や Paris photo などのアートフェアや写真フェアにも作品が出品されるようになる。硫黄島への取材を開始する。
2004年に発表した「Skyline」により日本写真協会新人賞を受賞。ヨーロッパで撮影した作品によりライカギャラリーソルムスにて個展。その後もコンスタントに国内外での作品発表を続けている。
2007年より多摩美術大学非常勤講師。
http://www.kunihikok.com/

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